大石蔵人之助の雲をつかむような話

株式会社サーバーワークス 代表取締役社長 大石良

震災から5年

今日で震災から丸5年が経ちました。

今でもあの揺れと、その後の痛ましい映像を忘れることはできません。
特にヘリコプターから撮影されていた名取市津波は本当にショックで、私が学生時代に家庭教師をしていた地域が黒い渦に飲み込まれていく様は、恐怖と悲しみと無力感とでやりきれない気持ちになったことを今でもよく覚えています。
犠牲になられた全ての方のご冥福をお祈りすると共に、まだ避難生活を余儀なくされている全ての方々に、心よりお見舞いを申し上げます。

昨日、「震災の記憶を風化させないように」とのことでアマゾンさんが「会社の枠を越えたウェブサイト復旧支援 ~東日本大震災時にAWSユーザーグループのメンバーはどう行動したか~ (記憶の継承)」という無料のKindle本を出しています。
こちらの本とも内容は一部重複しますが、私たちが震災後に行った支援活動について、改めて日本赤十字社様から当時のお話を伺い、インタビュー記事に纏めております。

>>日本赤十字社様特別インタビュー「無関心を超えた先にある繋がりのある社会へ」<<

私たちは当初、日本赤十字社様に行った支援活動について公表していませんでした。ところがある日、西島部長から「この事例は公開すべきだ。公開して、利益を出して、そして税金を払うなり義援金を払うなりして欲しい。それこそが真の復興であり、真の社会貢献だ」と諭されたのです。

日本赤十字社様のキャッチに

人間を救うのは、人間だ


というものがあります。

西島部長から復興のあり方について指摘されたとき、(おこがましい物言いは承知で言うと)「人間を救うのは自分の行動なんだ」ということを改めて思い返し、それが今の私たちを突き動かす原動力となっています。

5年も経つと、本当にいろいろなものが変わります。
記憶も少しずつ、薄れていきます。
ですが、形あるものが壊れ辛い記憶が風化しても、明るい未来をつくるという気持ちだけは変わらずに、私たちの仕事が少しでも日本と世界の将来に繋がることを信じて、生かされた毎日をしっかりと歩んでいきたいと思います。

人事制度と「まんじゅう」

こんにちは、大石です。

当社では、楽天とそのグループ会社で8年間人事課長を勤めておられた新井さんという方と「会社が成長するための人事評価制度」というものを一緒に作っているのですが、先日制度のレビューを一緒に行っている中で面白い議論がでてきました。

それが、「成果ってまんじゅうだ」という話です。

私たちが人事制度を導入している目的は

(1)公平かつ納得感のある評価を行うことで、業務に専念しやすい環境をつくること
(2)評価を通じて個人と会社の成長をたすけること

という2つなのですが、その中で「成果をどのように評価すべきか」という議論になったときに出てきたメタファーがこれです。

  • 皿=人として基本的な資質
  • まんじゅう=成果の大きさ・会社への貢献度合い
  • 皮=当然やるべき仕事
  • あん=個人毎に特徴づけられる達成目標

 

私たちの会社では「定量的な目標設定」と「行動指針に基づく定性評価」の2つを軸として評価を行っているのですが、実際に運用してみるといろいろな課題にぶつかります。

例えば、「行動指針の評価がどのように成果につながるのかがわかりにくい」という声だったり「目標を設定してそれを達成してもすぐに給与に反映されたりするわけではない理屈が納得できない」といったような(どこの会社にもありそうな)話がやはり当社でも出てきます。

それに対する新井さんの答えが、

1. MBO制度を取り入れてすごくうまく行っている、という企業の話は聞いたことがない。それでも『やらないよりはやったほうがマシ』というのが殆どの企業における現状

2. 目標設定をすると、会社の業績に直結しない目標を設定するケースがかなり見受けられるが、1次評価者の側にも確証がないので、それが漫然と受け入れられているケースが多いのではないか

とのことでした。

会社としては本来「業務を通じて会社に貢献してくれた人」を評価したいハズだが、「目標設定」を行うと「業務としてやるべきことをやる」といった当たり前のことが抜け落ちてしまい、目標の達成度に応じて評価が決まるという矛盾が生じたり、目標を達成したのに評価されないという不満がでてきてしまうとのこと。

マネージャーの経験がある方だったらだれでも同意できると思いますが、例えば「資格を取得する」といった目標を立てたエンジニアAさんとBさんがいたとして、Aさんは目標を達成しなかったが、業務を通じてとてもチームに貢献してくれている Bさんは目標を達成したが業務での貢献度合いが希薄だった、というケースでは、当然Aさんを評価しますよね?ところが目標管理による評価をすると、逆にBさんが高く評価されてしまう様なことが起きてしまう、という問題点が起こりえるとのこと。

このような議論をしていて、本質的に成果というものは「まんじゅう」の様なもので、明文化されることは少ないが成果の大半を占めている「皮」の部分と、個人を特徴づけ、かつ目標管理プロセスの中で明確化される「あん」の部分との2つで成っている、という話になったのです。

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そして「あん」は「皮」からはみ出てはいけない。あくまで会社の業績向上につながることで(つまり皮と一緒にいただくことで)はじめておいしくいただけるものだ、ということと、逆に「あん」だけ出されてもダメで、あんも「皮があっておいしくいただける」つまり、業務による会社への貢献が第一義だということに気づいたわけです。

エンジニアのみなさんも、「勉強会とかでは活躍しているけど、会社の評価は低い」という人のウワサを聞いたことがあるかもしれません。勉強会などではお互いに「あん」を見せあうので美味しそうに見えますが、やはり本当に評価される人というのは、あんと皮がバランス良くセットになっているのだと思います。

私たちの人事評価制度に対する理解:

  • 評価制度というものは、どうやって「人の成長」を助けるかという仕組みのこと。まんじゅうのメタファーで言うと「どうやってまんじゅうを大きくするか」という話
  • 皿が大前提。人として、チームとして一緒にはたらくことができるかどうか、といった人間的な本質(当社でいえば行動指針)。ここが大きくならないと、そこにのるまんじゅうはこぼれてしまい、大きくできない。例えば、チームメンバーの売上を横取りしてとってきた成果など「皿に載っていないまんじゅう」はそもそも皿に載っていないので食べることすらできない
  • 皮が最も大切。当たり前すぎて評価制度などで明文化されることが少ないが、これこそがまんじゅうの大きさ=成果の大きさを決定する要素
  • あんはアクセント。もちろん、まんじゅうをいただくにはあんを目指して食べていくが、皮があることが暗黙の前提。あんだけ出されてもおいしくない
  • 評価とフィードバックのプロセスを通じて「皿を大きくし」→「皮を大きくし」→「あんを大きくする」これによって結果として「まんじゅうが大きくなる」これが評価制度の理想

 

というわけで、人事制度の運用を通じてお皿を大きくし、その上でつくられる成果を大きくする。それをリピートすることができる人財の育成に、より力をいれて取り組んでいきたいと思います。

貴重な時間を割いて有意義な気づきを与えて下さった新井さんに改めて感謝します。まだコンサルは受けられるそうですので、興味のある方は問い合わせされることをオススメします!

棚上げ力

いやぁ、最悪ですね。


何が最悪かって、例の宮崎議員です。
私が「宮崎さんが言ってることは正しいから頑張れ!」と応援ブログを書いて、厚切りジェイソンとかサイボウズの青野社長とか業界有名人のみなさんが「そうだそうだ!」と後押ししてくれたのにこのザマです。なんということでしょう・・


失望とはこのことです。
辞職も当然ですね。
「政界復帰にふくみ」なんて言っていますが、もう信じる人はいないでしょう。

 

・・・

 

ですが、それでもやっぱり、私は彼のやろうとしていたことは正しいと思います。

私がもっとも懸念するのは、この件で「国会議員でも育休をとる」という議論が封殺されてしまうことです。国会議員が育休を取れれば、民間企業につとめる人、公務員として働く人、いろいろな人がもっと育休を取りやすい環境が作れたハズです。
そうした議論が暗黙のうちに霧消してしまうのは、誰のためにもなりません。
この件に限らず、私は議論をする際に「誰が言ったのか」ではなく「何を言ったのか」で判断すべきだと信じています。

昔、漢の高祖劉邦は「姉嫁と不倫している」「ワイロを受け取っている」など不逞の輩というウワサがあったものの、知謀に長けた陳平を最後まで使ったことで中国を統一したそうです。
秦の秦王政は、鄭国が韓のスパイ(韓への進行を遅らせるために秦に治水工事を薦めていた)と知りつつも、メリットがあるからという理由で治水工事を行ったことで、結果として秦を強国に押し上げました。

「その人のふるまい」と「言っていること、考え」を分離することで成功した先人の話は、歴史が教えるところでもあります。

 

私の口グセのひとつに「棚に上げろ」というのがあります。
よく社内でも「それは棚に上げて伝えよう」とか「棚に上げて言うけど・・」といって議論をしたりします。
会社で「お前が言うな」という声が上がり始めたらアウトだと思っているのです。

「お前が言うな」が是とされてしまうと、ポジションが上だったり、経験があったり、技術力が上だったりと、聖人君子のような人からしか声が上がらなくなってしまいます。
ですが、会社のオペレーションや文化といった、些細な、しかし重要なことを正していくのは、業種業態にかかわらず「現場の声」のはずです。そうした小さなフィードバックをきちんと改善に活かせるかどうかが、企業として継続し、成長を続けるためには絶対に必要不可欠だと思うのです。
不正会社を起こした会社などは「何を言う」よりも「誰が言う」が優先された結果、現場の声は封殺され、トップ主導の会計不正が常態化してしまったのでしょう。

 

宮崎(元)議員の件は残念です。
残念ですが、私たちが学ぶこともありました。

  1. 国会議員といえども、育休は取り、子育てしやすい社会を作ることは(誰がいったかどうかに関わらず)国民が共有すべき課題であること
  2. 誰が言ったか、そしてその人の行いの是非は棚に上げて、良いと思うことは採りあげること
  3. 自分のことは棚に上げて、それが会社や社会にとって必要だと信じるのであれば、言うべきことは言うこと

 

 

最後に、

 

文春スゲー!

全体最適が苦手な日本人

こんにちは、大石です。

今日はスゴい雨と雪でしたね。
当社は天候によって出社が困難だったり、ムリな出社によって生産性が落ちると考えられる場合は、申請で在宅勤務もできるようになっていますので「今日は半分くらいが家で仕事するんだろうなー」と思っていたら、facebookで知り合いの方がこんな投稿をあげていらっしゃいました。

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これを見て、昔アメリカ人の方に言われたことを思い出しました。

「日本人は非常に個人主義的だ。震災の時に特にそう思った。あれだけ駅前でタクシーを待っていても、誰も(同じ方向の人同士で)乗り合わせようとしない。自分が良ければいい、という考えの最たるものだ。よく日本は集団的、アメリカは個人的と言うが実際は逆だ。」

私も思わず「なるほど」とうなってしまいましたが、日本以外の方にはこう見えるようです。

言われてみれば、エスカレーターなんかも左側に行列して、右側はスッカスカ、ということがよくありますね。右側にも立てば理屈の上では行列が半分になるはずですが、居るか居ないか分からないけど急いでいる人のために全体の輸送効率が落ちる並び方を無意識にしてしまっています。

先のfacebookの投稿を見て、私たちには「思考のクセ」みたいなものがあって、全体の効率を下げていることが他にもあるのではないか?と考えてみました。

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もちろん「会社に出社する」という行為は非常に大きな意味のある行為、個人にとっての美徳だと私も思いますが、一方で「それが今日でなければいけないのか?」「それによって社会で失われているものはないのか」という問いについてはクエスチョンです。
どうしても私たち日本人は「個人の美徳」に目が行きがちで、実際そのような思考のクセというものがあると思うのですが、もっと全体としての効率や最適に目配りして意思決定しましょうと。その文脈で、システムも個別に最適化されたガチガチのシステムよりも、もっと柔軟でしなやかな「クラウドを組み合わせたシステム」にすることで、全体としての最適を目指しましょうという話だと思うのです。

こうした「美的感覚」の話に、ロジックで対抗することは困難です。実際、私も「エスカレーターで左側一列は非効率だから右側も使いましょう」と言われても「えっ?」となります。私たち自身、お客様にクラウドの説明をして個別最適から全体最適への変化を説明しても「えっ?」と言われることはままあります(例えば、今まではサーバー1台1台の可用性が重要だったが、クラウド時代ではインスタンス1台の可用性よりもシステム全体としての可用性の方が重要ですよ、という話とか)。
ですが、こうした思考の壁を乗り越え全体最適にたどり着くことが、今の私たちには必要な様に思われるのです。

 

これからオリンピックを迎え、日本人だけでは「左側一列」が当たり前だった世の中に「なんで?右も使った方が効率的じゃん」と考える外国人が(たぶん)大挙して押し寄せてきます。そんな時に、「日本のルールを守れ」と拒絶するのではなく、彼らが見ている全体最適の世界を見て、私たちも学ぶものがあるのではないかと今から期待しています。

AIは人間の脅威にはならないと考える理由

こんにちは、大石です。

2016年もITの世界は様々な動きがありそうです。私はテクノロジーの進化が人間の生活を豊かにする、と楽観的に考えていますが、クラウドの発展とともに膨大な計算を必要とする分野、特にAI関連の話題が本格的に広がりそうですので、現時点での私のAIに対するとらえ方を述べておきたいと思います。

人工知能脅威論

AIは様々な分野での活躍が期待される一方、シンギュラリティを超えれば人間がコントロールを失う、という人工知能脅威論」も真剣に議論されています。プログラム自身が自分でプログラミングを行い、人間がコントロールを失って、結果として人間を滅ぼすのではないか、という議論です。
しかし、私自身は人工知能が人間の驚異になることはない」と考えています。その理由を簡単に述べてみたいと思います。

知性の源

人間の知性というものは肉体に基づく人間の様々な制約、それは限りある命であったり、自分のコピーが絶対に存在しないという条件の下に成立しています。私たちの行動や判断を決定づける「知性」は、私たちが思っている以上に、肉体の制約の上に成り立っているというのが私の信念です。

例えばキューバ危機。あのぎりぎりの局面で、両首脳が絶望のなか最後まで交渉による妥結に望みを繋いだのは、「核戦争になれば自分も、自分の家族も悲惨な痛みを感じる」という、人間であれば誰でも感じるごく当たり前の感情を持っていたからに違いありません。
単純に合理性(この例では戦争の勝ち負け)でいえば、アメリカはあの時点で核戦争に持ち込んだ方が得だった。肉体の痛みも、家族を失う悲しみも分からないコンピューターが合理性だけで判断すれば、そのような結末もあり得た筈です。ですが、人間はそうはしなかった。私は人間の判断が真に知性的であったことを疑いませんが、限りある時間、痛みを知る肉体、一つしか無い人生だからこそ「人間の本能にとって最適な答え」が導ける。無限の時間を持ち、肉体を持たず痛みを知らず、ソフトウェアで簡単にコピーが作れる人工知能が「真に知性的になる」ことはあり得ないと私は考えます。

自動運転の課題

昨年、Googleの本社に行って自動運転カーを見てきました(屋根にカメラが乗っている車です!)

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ですが、思いも寄らない問題がある。事故が多いのです。事故を起こすのは自動運転カーではなく、人間の方です。人間が自動運転カーに追突してしまうのです。
自動運転カーは安全バッファを大きく取っているので、右折(アメリカでは左折)のような危険度の高い運転の時に、曲がっている最中でもスルっと前進せず思いも寄らぬところでブレーキを踏んでしまう。ところが人間は「そこは行くでしょ」ということを後ろから見ていて判断するので、追突してしまうのだそうです。

これは非常に示唆に富んでいます。
人間は、思っている以上に人間同士の行動を先読みしたり予測したりして、その前提の上で活動している。つまり人間同士が見えないネットワークを構成しているわけです。AIも人間のネットワーク内で上手に振る舞おうと思えば、人間のネットワークにどうやって適応するのか、ということを突き詰めて学習しないといけないのです。
自動運転を「今の一般道を時速200kmで走る方法」を開発するためにリソースを費やすことはないでしょう。「出る杭が打たれる」ではありませんが、人間の社会の中で歪なパフォーマンスを発揮する方向性はエラーとしてunlearnされる。そして人間世界に適応できるAIが学習の継続を許可される。
先のキューバ危機の例も同じで、人間の肉体を前提としない判断は破棄される。この繰り返しで、AIは学習過程でどんどん「人間らしい振る舞いが強化されて」溶け込んでくる。AIはその進化に伴い、人間がAIに人間社会の倫理やルールを教えて、人間社会の中でうまく立ち回る方法を教えていくことになると思うのです。そうなると、AIはどんどん人間臭くなる。
AIの最終形である「統合的な知性」の行き着く先は、人間なのかどうか見分けのつかない「ドラえもん」の世界だと思うわけです。

AI時代の人間の役割

自動運転の話で分かるように、AIは「人間の特定の動作や手法をまねて、それを非常にうまくやる」方向で進化を続けると考えられます。統合的な知性という観点ではより人間らしくなるものと思われますが、そうはいってもコンピューターですので、計算で解決可能な特定分野では圧倒的な強みを発揮すると思われます。例えば、将棋でもトップ棋士がコンピューターに負けたニュースをご存じの方も多いと思います。

そんな状況で、羽生さんが非常に面白いことを仰っていました。

問い:「人工知能が将棋のすべてを解明してしまったらどうするのですか?」
羽生さん:「そのときは桂馬が横に飛ぶとか、ルールを変えてしまえば良いんです」

これは非常に本質的な答えだと思います。
相手はコンピューターですから、将棋のように特定のルール下で大量の計算を行うゲームでは今後も強みを発揮すると考えられます。
ですが、先人が到達していない新たな領域を開拓したり、全く異なるルールを突然生み出すこと、例えばラヴェルボレロを書いたり、マルクス資本論を唱えるようなゲームチェンジは、かなり長い間AIには実現できない。逆に言えば、人間の仕事、役割はAIの進化とともにこの方向性にシフトしていくと考えられます。

こうしたことを考えると、AIそのものをプログラミングするような理系的な頭脳も当然重要ですが、一方でAIから何を破棄して、何を学習させるかという、より哲学的な問いの重要性が増すはずです。日本では大学から文系を縮小させようという動きがあるようですが、AIが進化すればするほど人文系学問、リベラルアーツの重要性が増すことは明らかで、今の施策は技術の方向性を見誤っている致命的な過ちと言わざるを得ません。
例えば小中学校の先生も、今は「講義型学習」と「人間教育」の両方の能力が求められていますが、英語、数学、理科、社会あたりは講義ではなく機械にマンツーマン(マンツーマシン?)で教えてもらった方が効率もよい筈です。そうなると、先生の役割が大きく代わり、もっと「人間教育」にスポットライトがあたる可能性はかなり高い。機械の役割が増え、しかも人間らしい振る舞いをするコンピューターが普段から自分たちの周りに居る状況が当たり前になるからこそ、「人間とは何か」「何のために生きるのか」「なぜ働くのか」といった問いに答えられる、またはそのような問いを設定できる教師の重要性がより増すはずです。

AIは間違いなく、かなりの数の人間の仕事を奪います。ですが、誰でもできる仕事が機械に置き換えられ、より創造性を求められる仕事に沢山の人がチャレンジしたり、哲学的な問いへの探求が重要になったりといった、人間らしさが深まる可能性も大いにあります。
技術の変化は不可逆的なものですので、私たちはこうした変化を受け入れ、楽しんで、より人間的な活動に人生の時間を使う姿勢が重要だと考えます。

まとめ

  • 特定分野向けのAIは、圧倒的な計算量で人間を超えるパフォーマンスを発揮するものが今後も大量に出現し、生活が便利になる一方、人間の仕事を代替するものも多数出現する
  • 統合的な知性への挑戦という観点では、より人間に近い思考、人間のネットワーク内で受け入れられる思考のみが選択的に学習されるため、(仮に生まれるとしても)本質的に友人として誕生する。しかし、意識や人格というものは肉体的な制約とセットで初めて知性的な存在として私たちに認識されるもので、仮に何らかの「意識的な存在」が発生したとしても、私たちからは失敗として認識されてしまうと考えられる
  • 現在の「AI脅威論」は統合的な知性への挑戦と特定分野向けのAIとが混ざって議論されている。統合的な知性に対する驚異でAI全体を否定してしまうのではなく、大半のAI(特定業務向けAI)は私たちの生活を良くしたり、企業の競争力を大いに増すはずなので、上手に付き合うことが重要

 

AIの研究が再度熱を帯びてきたのは、クラウドの発達で膨大な量のコンピューターリソースに簡単にアクセスできるようになったからに他なりません。
クラウドにデータを集めて、AIを上手に使いこなして、会社の業績をあげ、社会をよりよいものにしていきましょう!

結論:クラウドを使いたいと思ったらサーバーワークスへ!(←これが言いたかった)

新年のご挨拶(2015年を振り返って)

謹んで新年のお慶びを申し上げます。
旧年中に賜りましたご厚情に、厚く御礼申し上げます。

2015年もAWSのマーケットは順調に(というか急激に)伸長し、お陰様で私たちも大変忙しい1年を過ごすことができました。これも、当社をご愛顧くださっているお客様、パートナーのみなさま、そして素晴らしいサービスを提供してくれているアマゾンウェブサービスジャパンの皆さまのお陰と、深く感謝しております。

昨年も様々な出来事がありましたが、私たちの身に起きたことを3つほど振り返りたいと思います。

1. 2年連続のプレミアコンサルティングパートナー認定

お陰様で2014年のre:Inventで初めて認定されてから、2年連続でプレミアコンサルティングパートナーとして認定を受けることになりました。世界で15,000社以上いるパートナーの中から、上位0.3%という狭き門でしたが、当社の努力と実績が認められたことは素直に嬉しく思っています。

2. 私たちのパートナーであり第2位株主でもあるテラスカイの上場

2013年に資本・業務提携をしてから、テラスカイとはパートナーとしてクラウド市場を一緒に盛り上げてきましたが、ついに2015年4月に東証マザーズへの上場を果たしました。
Salesforceに非常に強く、かつエンタープライズマーケットにコミットしている企業が上場を果たしたという事実は、フォロワーである私たち、クラウドインテグレーターにとって大いに励みになりますし、高い株価が維持されているということは「この市場が将来も有望である」と投資家が判断している証拠だと思います。

3. 引越

2015年、サーバーワークスはオフィスを引越しました。ただ引っ越すだけではなく、「クラウドで、世界を、もっと、はたらきやすく」という私たちのビジョンを体現するオフィスにしようという試みで、非常に沢山の皆さまにオフィスツアーにお越し頂いたり、またメディアで採りあげて頂いたりしました。
引越をして分かったのが、「オフィスはシステムだ」ということです。オフィスというとどうしてもファシリティなどのハード面に目がいくのですが、人事制度やワークスタイルなど、様々なソフトがセットで初めて有効に機能するということが分かったことが一番の収穫でした。
AWSも、最初は私たち自身がドッグフーディングをしてみて、良かったから提供を始めたのがきっかけです。オフィスの仕組みやワークスタイル、様々なクラウドを組み合わせたITの仕組みも、自分たちで積極的に試してみて、良かったものをお客様に提供していくスタイルはこれからも続けていきたいと思います。

番外編:厚切りジェイソンの大ブレイク

ジェイソンはもともと仕事仲間で、Cloud Automatorの名前決めに参加してくれたりといろいろな協力を仰いでいたのですが、昨年は芸人としても大ブレイクして一躍有名人に。
彼のtwitterのつぶやきは「アメリカのエリートが普通に考えること」を短く、わかりやすく伝えてくれているのでファンも多い様ですね(フォロワーが26万人!)。facebookでも、昨年1年間で最も「いいね」をいただいた投稿がジェイソンとのツーショットで、芸能人の強さを感じました・・

今年も昨年以上に良い年にできるよう、社員一同よりよいサービスの提供に一層努力して参ります。
今年も一年、どうぞよろしくお願い致します。

国会議員こそ育休を取るべき!

こんにちは、大石です。

国会議員が育休を取るべきか否かで大もめに揉めているようです。まさかの蓮舫さんまで反対に回ったようで、「取りあえず自民党議員だから反対しとけ」みたいな風潮に政治家の質の低下を懸念せざるを得ません。

議員は何のためにあるのか?「未来の日本を作るため」です。

日本という国を作るために何が必要か?それは人と国土です。この2つが無ければ国とは認められない。そして今、日本という国からとんでもない勢いで人が失われようとしている。これをどうやって止めるのか?(もしくは、止めずにどうやって幸福を追求するのか?)を考えることが国を造る政治家の、党派を超えた喫緊の課題であるはずです。

少子化の理由はある程度明らかになってきており、男女の枠を超えて子育てに参加することが少子化の現実的な解決策として有効だと国も認めている(*)中で、国会議員こそがそうした風潮を率先して作っていかなければいけないはずです。
(*厚生労働省少子化対策推進基本方針についてにも、「社会全体の取組みとして、国民的な理解と広がりをもって子育て家庭を支援すること」と記されています)

「国会議員なんだから育休とるな」というロジックが成立してしまうと、「医者は人の命を預かっているんだから育休をとるな」とか「インフラを預かっている者は育休をとるな」という具合に、仕事の社会的な責務を理由に育休の取得が阻害されてしまいます。そして、こうしたロジックの蔓延こそが今起きている問題、すなわち蓮舫さんがいう「育休を取れない現実」を生んでいる訳です。
(残念ながら、蓮舫さんに「自分が育休を取れない原因を作っている側の一人だ」という認識は無いようです)

「税金を払っているんだから仕事しろ」というのは、政治家をサービス業かなにかと勘違いしているとしか思えません。政治家こそ最も「成果」で評価がなされるべきで、この国に議論を巻き起こしたという点でも大いに評価されるべきと思います。
また、「サラリーマンより多く給与をもらっているから」というのも理由になりません。それでは給与の高い人と結婚した女性が選択的にキャリアを諦めたりしなくてはいけなくなる。
今私たちに必要なことは、そうした例外無く、社会として男性・女性が均等に育児負担をすることで「働きながらも子供を育てやすい社会をつくる」ことだと思います。

実は私も(残念ながらイクメンとは言いきれませんが)2005-2006年にわたり、一足早く帰って、子供の送り迎えやお風呂に入れたりを手伝っていた時期がありました。そういう時期があったからこそ、子育ての大変さも実感として理解できるし、女性だけに負担を強いることの理不尽さも多少は理解しているつもりです。

もちろん、向き不向きがありますから家庭によっては専業主婦という選択をされても良いと思います。ですが、「女性が泣く泣く専業主婦を選択せざるを得ない」「キャリアを諦めなければいけない」という状況は絶対に終わらせなければいけない。その責任は、国会議員でも民間人でも変わるところはありません。

宮崎さんには、これからも逆風が吹くと思います。厳しい意見も浴びせられると思います。ですが、「未来をつくる」ために、少子化対策は絶対に必要で、それは男性側の仕事の軽重も、給与の多寡も関係ありません。
逆風に負けず、初志を貫徹して頂きたいと切に願います。