大石蔵人之助の雲をつかむような話

株式会社サーバーワークス 代表取締役社長 大石良

AIは人間の脅威にはならないと考える理由

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こんにちは、大石です。

2016年もITの世界は様々な動きがありそうです。私はテクノロジーの進化が人間の生活を豊かにする、と楽観的に考えていますが、クラウドの発展とともに膨大な計算を必要とする分野、特にAI関連の話題が本格的に広がりそうですので、現時点での私のAIに対するとらえ方を述べておきたいと思います。

人工知能脅威論

AIは様々な分野での活躍が期待される一方、シンギュラリティを超えれば人間がコントロールを失う、という人工知能脅威論」も真剣に議論されています。プログラム自身が自分でプログラミングを行い、人間がコントロールを失って、結果として人間を滅ぼすのではないか、という議論です。
しかし、私自身は人工知能が人間の驚異になることはない」と考えています。その理由を簡単に述べてみたいと思います。

知性の源

人間の知性というものは肉体に基づく人間の様々な制約、それは限りある命であったり、自分のコピーが絶対に存在しないという条件の下に成立しています。私たちの行動や判断を決定づける「知性」は、私たちが思っている以上に、肉体の制約の上に成り立っているというのが私の信念です。

例えばキューバ危機。あのぎりぎりの局面で、両首脳が絶望のなか最後まで交渉による妥結に望みを繋いだのは、「核戦争になれば自分も、自分の家族も悲惨な痛みを感じる」という、人間であれば誰でも感じるごく当たり前の感情を持っていたからに違いありません。
単純に合理性(この例では戦争の勝ち負け)でいえば、アメリカはあの時点で核戦争に持ち込んだ方が得だった。肉体の痛みも、家族を失う悲しみも分からないコンピューターが合理性だけで判断すれば、そのような結末もあり得た筈です。ですが、人間はそうはしなかった。私は人間の判断が真に知性的であったことを疑いませんが、限りある時間、痛みを知る肉体、一つしか無い人生だからこそ「人間の本能にとって最適な答え」が導ける。無限の時間を持ち、肉体を持たず痛みを知らず、ソフトウェアで簡単にコピーが作れる人工知能が「真に知性的になる」ことはあり得ないと私は考えます。

自動運転の課題

昨年、Googleの本社に行って自動運転カーを見てきました(屋根にカメラが乗っている車です!)

google-car

ですが、思いも寄らない問題がある。事故が多いのです。事故を起こすのは自動運転カーではなく、人間の方です。人間が自動運転カーに追突してしまうのです。
自動運転カーは安全バッファを大きく取っているので、右折(アメリカでは左折)のような危険度の高い運転の時に、曲がっている最中でもスルっと前進せず思いも寄らぬところでブレーキを踏んでしまう。ところが人間は「そこは行くでしょ」ということを後ろから見ていて判断するので、追突してしまうのだそうです。

これは非常に示唆に富んでいます。
人間は、思っている以上に人間同士の行動を先読みしたり予測したりして、その前提の上で活動している。つまり人間同士が見えないネットワークを構成しているわけです。AIも人間のネットワーク内で上手に振る舞おうと思えば、人間のネットワークにどうやって適応するのか、ということを突き詰めて学習しないといけないのです。
自動運転を「今の一般道を時速200kmで走る方法」を開発するためにリソースを費やすことはないでしょう。「出る杭が打たれる」ではありませんが、人間の社会の中で歪なパフォーマンスを発揮する方向性はエラーとしてunlearnされる。そして人間世界に適応できるAIが学習の継続を許可される。
先のキューバ危機の例も同じで、人間の肉体を前提としない判断は破棄される。この繰り返しで、AIは学習過程でどんどん「人間らしい振る舞いが強化されて」溶け込んでくる。AIはその進化に伴い、人間がAIに人間社会の倫理やルールを教えて、人間社会の中でうまく立ち回る方法を教えていくことになると思うのです。そうなると、AIはどんどん人間臭くなる。
AIの最終形である「統合的な知性」の行き着く先は、人間なのかどうか見分けのつかない「ドラえもん」の世界だと思うわけです。

AI時代の人間の役割

自動運転の話で分かるように、AIは「人間の特定の動作や手法をまねて、それを非常にうまくやる」方向で進化を続けると考えられます。統合的な知性という観点ではより人間らしくなるものと思われますが、そうはいってもコンピューターですので、計算で解決可能な特定分野では圧倒的な強みを発揮すると思われます。例えば、将棋でもトップ棋士がコンピューターに負けたニュースをご存じの方も多いと思います。

そんな状況で、羽生さんが非常に面白いことを仰っていました。

問い:「人工知能が将棋のすべてを解明してしまったらどうするのですか?」
羽生さん:「そのときは桂馬が横に飛ぶとか、ルールを変えてしまえば良いんです」

これは非常に本質的な答えだと思います。
相手はコンピューターですから、将棋のように特定のルール下で大量の計算を行うゲームでは今後も強みを発揮すると考えられます。
ですが、先人が到達していない新たな領域を開拓したり、全く異なるルールを突然生み出すこと、例えばラヴェルボレロを書いたり、マルクス資本論を唱えるようなゲームチェンジは、かなり長い間AIには実現できない。逆に言えば、人間の仕事、役割はAIの進化とともにこの方向性にシフトしていくと考えられます。

こうしたことを考えると、AIそのものをプログラミングするような理系的な頭脳も当然重要ですが、一方でAIから何を破棄して、何を学習させるかという、より哲学的な問いの重要性が増すはずです。日本では大学から文系を縮小させようという動きがあるようですが、AIが進化すればするほど人文系学問、リベラルアーツの重要性が増すことは明らかで、今の施策は技術の方向性を見誤っている致命的な過ちと言わざるを得ません。
例えば小中学校の先生も、今は「講義型学習」と「人間教育」の両方の能力が求められていますが、英語、数学、理科、社会あたりは講義ではなく機械にマンツーマン(マンツーマシン?)で教えてもらった方が効率もよい筈です。そうなると、先生の役割が大きく代わり、もっと「人間教育」にスポットライトがあたる可能性はかなり高い。機械の役割が増え、しかも人間らしい振る舞いをするコンピューターが普段から自分たちの周りに居る状況が当たり前になるからこそ、「人間とは何か」「何のために生きるのか」「なぜ働くのか」といった問いに答えられる、またはそのような問いを設定できる教師の重要性がより増すはずです。

AIは間違いなく、かなりの数の人間の仕事を奪います。ですが、誰でもできる仕事が機械に置き換えられ、より創造性を求められる仕事に沢山の人がチャレンジしたり、哲学的な問いへの探求が重要になったりといった、人間らしさが深まる可能性も大いにあります。
技術の変化は不可逆的なものですので、私たちはこうした変化を受け入れ、楽しんで、より人間的な活動に人生の時間を使う姿勢が重要だと考えます。

まとめ

  • 特定分野向けのAIは、圧倒的な計算量で人間を超えるパフォーマンスを発揮するものが今後も大量に出現し、生活が便利になる一方、人間の仕事を代替するものも多数出現する
  • 統合的な知性への挑戦という観点では、より人間に近い思考、人間のネットワーク内で受け入れられる思考のみが選択的に学習されるため、(仮に生まれるとしても)本質的に友人として誕生する。しかし、意識や人格というものは肉体的な制約とセットで初めて知性的な存在として私たちに認識されるもので、仮に何らかの「意識的な存在」が発生したとしても、私たちからは失敗として認識されてしまうと考えられる
  • 現在の「AI脅威論」は統合的な知性への挑戦と特定分野向けのAIとが混ざって議論されている。統合的な知性に対する驚異でAI全体を否定してしまうのではなく、大半のAI(特定業務向けAI)は私たちの生活を良くしたり、企業の競争力を大いに増すはずなので、上手に付き合うことが重要

 

AIの研究が再度熱を帯びてきたのは、クラウドの発達で膨大な量のコンピューターリソースに簡単にアクセスできるようになったからに他なりません。
クラウドにデータを集めて、AIを上手に使いこなして、会社の業績をあげ、社会をよりよいものにしていきましょう!

結論:クラウドを使いたいと思ったらサーバーワークスへ!(←これが言いたかった)