大石蔵人之助の雲をつかむような話

株式会社サーバーワークス 代表取締役社長 大石良

練炭と自分探し

記事タイトルとURLをコピーする

こんにちは、大石です。

昨年末に「※ただしイケメンに限る」という態度がいただけないという話をこのブログで書いたところ、予想以上の反響をいただきました。ここはひとつ調子に乗らせていただき、最近よく耳にする「練炭と自分探しの旅」に関する私見を加えて、前回の続きを書かせて頂きたいと思います。

人間とは、「人」の「間」と書くように、関係性の生き物です。
人との関わり、関係が、人間を人間たらしめている。
「わたし」とは、「わたし以外の人が存在する」ことに起因する、区別するための呼称です。「わたし」には、暗黙のうちに他社の存在が求められているわけです。
「わたし」が他社の存在に依存するということは、「自分がこうありたい」「だからこうする」という行為は自分のものでも、「私とはAである」という評価は自分のものではないということも意味します。
例えば私が「私はオバマです」といっても、周りの人が違うと言えばそれは違う。私が私たり得るのは、周りの人が私のことを「あの人は大石さんだ」と理解してくれることに依っているわけです。
つまり、自分がどういう人間なのか、その評価は自分以外のだれかの手に委ねられているということです。

そもそも評価という行為は、ニーチェ
「評価こそが創造である」
といったとおり、 極めて知的に高度な作業であり、評価する側にも相応の資質が求められます。
松井証券松井道夫社長も、人事評価について
『「人が人を評価する」ということは本来、「神への冒涜」とも言える行為』
と仰っています(人事評価を始める前に、わざわざ評価者を集めて読み合わせを行うと聞きました)。
それくらい、本質的に難しい行為なわけです。

しかし、成果主義などの広がりで評価の回数が増え、そもそも評価というものが
軽く扱われるようになってしまったせいなのか、
評価=(年収のような)金銭的な多寡 という幼稚な度量衡が定着してしまったせいなのか、
自分の評価を安易に決めたがる人が非常に多いと感じます。
自分が非イケメンだからダメだという態度も、顔の造形という度量衡で自分を評価し、さらに「相手もその度量衡を重視している」という根拠の無い前提に基づいています。そのことを以前いただけない態度と述べました。

自分の評価を自分で決めるという行為は、他者の存在を無視しているという意味において、私は非常に傲慢で自分勝手な振る舞いだと思います。
そして自己中心的な振る舞いが結果的に自分にマイナスとなって跳ね返ってくることは、多くの先人が教えるところです。

自分の評価を自分でする人には、典型的な行動パターンがあるようです。
現在の自己評価は低いけれども「本当の自分はもっと価値があるはずだ」と思う人は、「自分探しの旅」に出かけてしまう。
この「自分探し」というのは、二重の意味で自己中心的です。
一つ目は「現在の自分には価値が無いという評価を自分でしてしまう」こと、もう一つは「本当の自分を阻害している要因が自分以外のところにあるという前提が暗黙の内に存在する」こと。
「本当の自分は周りによって阻害されている」と考える人は、「会社が悪い」と決めつけて転職を繰り返したり、「今の環境ではダメだ」と言い出してどこか遠くへ、文字通り旅にでかけてしまったりする。
先述の通り人間は、コミュニティによって自尊心とか存在価値とかを規定されています。自分探しの旅は、「周りが悪いからコミュニティから抜け出したい」「リセットしたい」という願望の表れです。しかし、問題を外部に求める自己中心的な態度では、どのコミュニティに言っても結局同じ事が起こることは想像に難くありません。

現在の自己評価が低く、将来にも価値を見いだせない人はもう少し破滅的な行動に出るようで、「自分の人生が価値のないものだ」「どうせ死ぬなら今死んでも一緒」といった、本質的に他人を無視した、自分だけの価値基準で自分の人生の測量を終えてしまい、練炭などで自分の人生を終結させる道を選んでしまう。親の庇護がある場合、社会的には自殺と同義であるニートになってしまう。

いずれの場合も、「自分の価値は自分が評価する」という、本質的に他者を無視した態度が、破滅的であったり、自分の価値を高ずるつもりが逆に減ずる方向へ向かわせることに繋がってしまうわけです。

自分の価値は自分では評価できない。
その人が生きている間に正しく評価できるかどうかすらわからない。
ゴッホは生前、1枚しか絵が売れなかったそうです。それをもってゴッホの人生が無意味だったと言う人がいるでしょうか?

イチローが9年連続200本安打という偉業を達成した後で、「ただ1本1本ヒットを積み重ねただけ」という主旨の発言をしていました。
私はこれが真実だと思います。
ただ目の前のボールを打つ。
クリーンヒットでなくても、ボテボテの当たりでも全力で駆ける。それによって内野安打を稼ぐ。
小さくても、そうした目の前の懸命な努力の積み重ねが、いつしか(他者から)偉業と呼ばれる成果になる。
そこに、自分の人生の測量活動があったでしょうか?
自分の人生を阻害する要因が他にあるという考えでは、決してこの境地には至らないと確信します。

私も、先の目標をにらみつつも、日々目の前のことを一生懸命やるようにしています。
それは、目の前のことをひたすらにやることが(何かはよく分かりませんが)自分の人生にとって、自分では想像もつかないほど重要なことだと思えるからです。
豊臣秀吉だって、「草履を出す」ことを一生懸命にやったから、「草履を暖めたら殿が喜ぶのではなかろうか?」と思うに至るわけで、そういう考えの人にチャンスが巡ってくるわけです。

自分とは何者なのか?
殆どの人にとって、一度は当たる問いでしょう。
私にはわかりません。たぶん一生かけてもわからない。

しかし、先人は私たちにすばらしい羅針盤を残してくれています。 
私は仕事柄、いろいろな悩みを抱えた人からの相談をうけることが数多くあります。
そんなとき、先人の知恵の一つとしてコソッと話に織り交ぜる名言がありますので
その言葉をご紹介して、締めさせて頂きたいと思います。


あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一心になすべし(福沢諭吉